久しぶりにガールズ&パンツァー(特に劇場版)について考えを巡らせた(妄想ともいう)ので書きしたためたいと思います。
妄想炸裂のきっかけは主人公・西住みほ(以下すべて敬称略)と劇場版のライバル・島田愛里寿の誕生日がそれぞれ10月23日と10月24日で一日しか違わないことを知ったときでした。
クマのボコ愛好家であることを中心に類似する部分が多い二人ですが、この誕生日の設定であらためて明確な意図でもって対になるように仕組まれた関係性なんだなと思わされました。
このことを起点に「西住みほの成長物語としてのガールズ&パンツァー劇場版」を考えていきます。
この部分を掘り下げる前に、まずはTVシリーズの話に。
TVシリーズは戦車道を、劇場版は西住流を受け入れる話
もともとガールズ&パンツァーのTVシリーズは「伝統武道・戦車道の家元である実家から逃避した西住みほが、出会いや成長を通じてみほだけの戦車道の在り方を見つけて受け入れる話」でした。
過去と向き合いながらも変化を受け入れていく丁寧で優しい話でしたが、同時にあえてきちんと解決せずに残したまま終わった部分もありました。よくよく考えたら母親ときちんと和解してないという部分です。
最後の敵・黒森峰との戦いで、敵隊長である姉・まほとその指導者である母・しほとの対峙を通じて過去との決別とのを遂げるわけですけど、互いの理解をにおわせつつもきちんとした対話はないまま話は終えます。
あ、いやこれ批判しているわけではなくて、作中のちょっとした描写で直接話しなくても母親が認めてくれただけで不和は解けているし、母子が出会わず終わることで自立を描けている抑制のきいたいいラストだと思ってます。
というわけで、TVシリーズで戦車道そのものは新しい形で受け入れたみほですが、じゃあみほの物語として劇場版が描くべきなのは解決が残されたテーマ、西住流としての戦車道(そして西住家そのもの)のことになっていくわけです。
そこでキーになってくるのが島田愛里寿その人です。
みほの「より優れたもう一人の自分」としての愛里寿
みほと愛里寿は類似点が多くありつつも、明確な差異が残された関係です。
クマのボコという共通の趣味趣向を持ちつつ、みほは戦車道の流派・西住流の次女として育ちつつも、母の愛を(互いの本心がどうであったかには関わらず)得られず、また次女という立場である以上基本的には次期家元にはなれないであろうことが決まった立場です。
これに対し愛里寿は母の愛も受け、かつ一両にて西住姉妹のコンビネーションと対等に渡り合う作中でも卓越した実力と島田家の一人娘(だったよね?)という島田流次期家元としての未来を約束された立場の持ち主です。
愛・才・生とあらゆる意味で恵まれた愛里寿と比較的そうではなかったみほとの対比は、みほと愛里寿の誕生日が愛里寿が一日先に隣り合っていることによって「みほと類似してはいるが上位の存在である愛里寿」という構造として完成します。
要するに愛里寿は映画でよくある「より優れたもう一人の自分」です。たとえば自分の上位互換のクローンなんかモチーフとしてよく出てきますよね。非常にわかりやすい「越えるべき壁」の象徴です。
しかも2人の差は「母の愛」や「家元の子としての扱い」にあり、TVシリーズで解決が残されていた「みほが西住流戦車道とどう向き合うか」に収束します。愛里寿そのものがみほが立ち向かうべき障害、越えるべき壁としてひじょ~によくできた存在なんですよね。
「みほ」で勝てなくても、「西住」で勝つ。んだけれど…
そんなこんなで西住みほ率いる大洗女子対島田愛里寿率いる大学選抜の試合が行われるわけなんですが、みほ個人と大洗女子本来の実力でそのまま試合が始まっていたらまったく勝負にならないまま負けていたところを、母のバックアップと姉とのコンビネーション(と他校の協力)のおかげで大学選抜を破ります。
「みほの戦車道」ではできなかったことを「西住流戦車道」として成し遂げることでTVシリーズで解決しなかった西住流そのものとは向き合っていない問題を解決するに至ります、が。
実際に劇中でそのあたりの描写は作り込まれてはいないんですね。みほが主体的に家族と向き合うことで問題が解決していくシーンがないんですよ。母の協力を取り付けたのは角谷会長ですし、他校招集の首謀者はダージリンです(母姉のみほへの思いやりが協力の動機としてあったとしても)。
みほが家族に対して直接働きかけたことといえばハンコもらいに行ったことくらい。選抜戦の開始時にふってわいた姉の参戦に対し、特にわだかまりなく阿吽の呼吸でコンビネーションをとれてしまって「越えるべき壁だと思ってたら、気づいたら越えてた」状態になっています。
愛里寿という存在が負っている「みほが越えるべき壁」という象徴性と、みほが物語内で家族に対して主体的に行動した内容に齟齬ができてるんですよね。
愛里寿に勝つということが、西住流という過去を受け入れることとイコールにするには姉(そして母)と力を合わせるために何らかの葛藤が必要だったのではないかと思います。
例えば、当初は姉と少しぎこちない関係が残っていて苦戦するものの、幼少時に共に過ごした日々を思い出すことで強い絆を取り戻して脅威をコンビネーションを取り戻したり、ラストの加速のアイデアがかつて母との修練を積む中で思いついていたもので、それを母と過ごした日々を思い出すことで使うことができるようになるなどの展開があれば「過去を受け入れる=愛里寿に勝つ」というドラマの一致が生まれたのではないでしょうか。
あと、みほと愛里寿のやりとりがもっとあっても良かったと思うんですね。両者戦車道家元の実施同士だし面識があることを描いてもよかったし、その中で愛里寿の母・千代を交えてのやり取りが生まれれば「親元を離れたみほ」と「親の庇護を受ける愛里寿」の対比が明示され、より分かりやすくなったのではと思います。
あるいはもう一つの可能性、「そして母になる。」
あともう一つアイデア、これは作品内で完全に否定されていることなんで話半分なんですけど、私劇場版初見時(この頃はTVシリーズもちゃんと見ていない)、愛里寿は戦車道に不満を持ったキャラクターだと思ってたんですね。
ボコが虐待児童のトラウマの暗喩に見えたし、母・千代も一見愛があるように見えて子どもを物を与えるだけの愛情を持たない毒親に見えたし、大学選抜のメンバーも島田流後継者の愛里寿を雲の上の腫れ物扱いしていたように見えたし、愛里寿自身が戦車道をすごく楽しくなさそうにやっているように見えたんですね。(今にして思うとガルパンの作風でそんなのありえないんですけどね!)
ただこういう風にして別の可能性を考えてみると、母に愛される愛里寿と母に愛されなかったみほの対比ではなくて、愛里寿はみほにとって「愛されず戦車道を愛せなかったかつての自分」という別の切り口が生まれます。
例えばこの流れからならば、みほが出会いと成長を通じて戦車道を受け入れられるようになったのと同じことを愛里寿にしてあげることで愛里寿の成長を促すと同時に、自分が愛里寿にとっての「母的存在」になることで、自分が実は母に愛されていたことに気づくという、前述とは別の意味で過去を乗り越える物語も作れたんじゃないかなと思いました。かなり無理筋の展開ではありますが。
でも結局のところ…
さてここからが本題です。
ここまで自分で言っといてなんですけど、
ガルパンってそういう話じゃねえから~~~~~!!!!!!
ってことですね。
「うわ、いやな奴が出てきたぞ…」と思ってたらみんな人懐こい善人になったり、「ボコってこれ虐待児童の暗喩なんじゃないの…」と思ってたらそんなこともなかったり、深刻そうなことはギャグになったり特に大したことなかったりします。人間関係においても基本的に一度戦えばわだかまりは消えて仲良くなっているものととらえるのが正しいのでしょうね。黒森峰戦ラストで西住家の問題はすべて解決したととらえるのが適切だと思います。
そもそも「ガールズ&パンツァー」って「戦車に乗った少女たちが戦う」という言葉から得られるシリアスな印象とは全く異なるテイストの作品なので、深刻そうなものが深刻じゃないのはガルパンという作品自体が根本に持ってる特性であり、その深刻にならない感じこそがガルパンの魅力だと思います。
劇場版ももっと愛里寿をみほの乗り越えるべき象徴として描こうと思えばできたはずですがそうせず、「ドラマ入れるぐらいなら戦車アクションシーンに尺割こうぜ!」という、細やかな機微を描いたウェルメイドな秀作にするよりも、アクションシーンの映像と音響による物理的エモーションを優先して、禁断症状を起こさせるようなカルト作品に仕上げたことにスタッフの皆さんの矜持を感じます。
私がつらつらと書き連ねたこともスタッフの皆さんに「まぁそういう風に見ようと思ったら見えるかもだけど…全然ちげぇから!」と言われてしまうかもしれないですね…
もろもろまとめると、はじめに言っておいてなんなんですがみほの成長物語としての要素はそれほど強調されておらず「ガールズ&パンツァー劇場版とは大迫力の痛快アクションエンターテイメントである!以上!」
というのが実際かと思います。でも、深読みしたら西住みほという新しい自分を見つけた少女が、過去の自分も受け入れられるようになった話としてちょっと心が温まるかも…。私はあえてそう見たいし、皆さんもそうなんじゃないでしょうか。